+I say "thank you" for you.+

そこに足を踏み入れた瞬間、少年は思わず息を飲んだ。
「どうアルヤ、おどろいた? きれいな花畑でしょう?」
ルセイヌ城の裏手で一面を虹色に染め上げる、広大な花畑。8歳になったばかりのルセイヌ皇女セリアにとっての、数少
ない憩いの場所の一つだった。
「中で見るともっときれいなのよ。ね、行こう」
セリアはアルヤの手を取り、放心状態で花畑に見入っていた彼を花の海の中にそっと引き入れた。


始まりは、身を容赦なく凍えさせる氷雨がそぼ降るルセイヌ城の城門前。そこで傘もなくずぶ濡れになり、今にも溶け消
えそうに小さく膝を丸めて、か細い声で泣きじゃくっていたアルヤをセリアが見つけてから、間もなく一月が経とうとし
ていた。
セリアは今でも、最初に彼の手を取った時の、あの皮一枚を隔てて骨に触れた感触とずぶ濡れの手の冷たさを忘れること
ができない。
アルヤは長い間の飢えと凍えによる衰弱で一時は命も危ぶまれていたが、セリアの意向によるルセイヌ城での手厚い看護
のおかげで、4、5歳と思われる本来の年相応の体格に近いところまで回復してきていた。
「皇女に拾われた捨て子」アルヤの城内での評判は決して芳しいものではなかった。セリアにとっては馬鹿馬鹿しい偏見
としか思えなかったが、平民――それも恐らくは下層階級の生まれであろう子供がルセイヌ城に居ること自体が、城内の
多くの者にとっては珍奇で恥ずべきことだった。しかし彼の評判を下げている理由は、必ずしも彼の出自による偏見だけ
ではなかった……。
「ねえ、アルヤ」
花の海の中に身体半分まで埋もれ、どうすればいいのか分からないといった面持ちで手近な花をいじっていたアルヤは、
返事もなくゆっくりと振り向いた。自分を見る瞳には感情がほとんど浮かんでいない。
(いつもこんな顔してるから、城の人たちがカン違いするのよね……)
あんな無礼な子供なんか、放っておけばよいのです――この一月、呆れるほど何度も言われた忠告。アルヤは誰が相手で
も常に無表情で言葉も殆ど発することがなく、最初に会った時は名前を聞き出すことすら至難の業だった。そんな彼の子
供らしからぬ無愛想さが元からの偏見にさらに拍車をかけることとなり、今となっては城内でのアルヤの味方はセリアの
他には片手で数えるほどしかいなくなってしまった。
(孤児院に行っちゃう前に、せめて笑顔くらいできるようになってほしいんだけど)
そう遠からぬ体力の完全回復を待って、アルヤは城の近くの孤児院に引き取られることが決まっていた。彼の立場を考え
ると致し方ないことではあったが、アルヤを弟のように思いつつあったセリアは彼と離れるのが嫌だったし、彼の今後が
心配でもあった。


「あ……!」
その時不意に突風が吹き、セリアの頭からピンク色の帽子がふわっと空に舞い上がる。帽子はくるくると風に踊り、アル
ヤのすぐ近くにある花の絨毯の上に静かに着地した。
「……」
不意に自分の目の前に飛び込んできたピンクの帽子をアルヤはぼんやりと見つめた。そしてふっとセリアに視線を移し、
ピンクの帽子を手に取って表情一つ変えることなくセリアに渡した。
「ありがとう、アルヤ」
こんな優しいところもこの子にはあるのにねと思いながら、セリアはにこやかに帽子を受け取った。早速帽子を被りなお
していると、ふと隣から囁くように小さな声が耳に飛び込んできた。
「……ありがとう、って……なあに?」
セリアはあまりに意外な言葉に、思わず少年を見やった。
「ありがとうって……さっき、わたしの帽子を取ってくれたじゃない? だから……」
「しら、ない。ありがとうって……しら、な、い……」
アルヤの口からたどたどしく紡がれる言葉。その言葉には嘘の気配は欠片もなく、セリアはこの少年が「ありがとう」の
意味を知らないまま――多分一度として聞くこともないまま今まで生きてきたということを、否が応でも信じざるを得な
かった。
(そうなんだ……だからみんな、誤解していたのね)
感謝の気持ちを言わないのではなく、言い方を知らなかっただけなのに。
「……アルヤ。『うれしい』って、分かるかな?」
少年は、よく分からないと言いたげにセリアを見上げた。
「何かしてもらって、いいなと思ったり……誰かと一緒にいられて、楽しかったり……他にもいっぱいいっぱいあるけど、
そういった気持ちが『うれしい』っていうことなの。その『うれしい』気持ちをその人に伝えたくてたまらない時に、
『ありがとう』って言うのよ」
「……うれしい……。ありがとう……?」
かみ締めるように、ゆっくりと言葉を繰り返す。
「そう。その言葉ひとつで、あなたは一人じゃなくなるの。みんながアルヤのことを好きになってくれるのよ」
自分が彼のことを好きになったように、今は誤解しているみんなも、そしてこれから彼がめぐり合うであろう多くの人も、
きっとアルヤを好きになる。
「わたしね、アルヤに会えてうれしいよ。こうして一緒にいて楽しい。さっきも、帽子を取ってくれてうれしかった。だ
から、何回だって言うよ。……ありがとう、アルヤ」
しばしきょとんとセリアを見つめていたアルヤは、やがて思い立ったようにセリアの手を握り締めた。もう一方の手で花
の海とセリアの体を交互にぽふぽふ叩きながら、何かを言おうと必死に口をぱくぱくさせている。
「セリア……あり……あり、がとう」
ようやく口をついて出た言葉は、言い慣れないぎこちなさがあるものの、彼なりの思いが凝縮した力強さがそこにあった。
言葉を紡いだアルヤの顔は、無意識のうちに僅かながら微笑みが浮かんでいる。
初めて目にしたアルヤの笑顔に、セリアは胸の中にたちまち温かさが込み上げてくるのが分かった。弟のような少年の肩
にそっと手を乗せ、セリアは彼の生まれて初めての不器用な感謝に、力強い声で答えた。
「どういたしまして!」
その満面の笑顔は、青空をくまなく照らし出すまばゆい太陽に、よく似ていた。


***


あの笑顔を、ずっと見ていたかった。
あんな笑顔を、いつかは自分もできるのかと思った。

……なあ、オレは今、笑顔で生きているか?


ルセイヌ城から少し離れた小高い丘の上に、彼の尋ね人はいた。
「久しぶり……セリア。ずっと会いに来なくてごめんな」
少し寂しげに微笑むと、アルヤは白い花束をそっと墓標に備えた。
あまりにも儚いその死から何年も経ち、革命を経てルセイヌが共和国となった今でもなお、そこは心ある者たちによって
常に綺麗に磨きぬかれ、花束が途絶える日は一日たりとてない。
墓標からは、あの日と同じ虹色に咲き誇る花畑が遠くに見えている。
「今、オレは一人じゃない。仲間と一緒に世界を旅してる。何だかんだで結構楽しい毎日だよ」
あの頃は、こんな日々が自分に訪れるとは全く想像していなかった。
ルセイヌの片隅で朽ち果てるのを待つばかりだった幼い日の自分。セリアを奪われ、仇討ちを胸に誓って世界を渡り歩い
ていた復讐鬼の自分。……セリアが教えてくれた感謝の心を、完全に忘れていたあの頃。
「セリアのおかげだ」
命を救ってくれただけでなく、人としての心までも救ってくれた彼女。もし、今の穏やかな日々を幸せというのなら、そ
れは間違いなくセリアから贈られたもの。
「だから……今度はオレが君の望みを叶える番だ」
全ての人の幸せを、笑顔を、何よりも望んでいたセリア。あの時の自分のぎこちない笑みに、太陽のようなまばゆい笑顔
で答えてくれたセリア。そんな彼女に贈る、ひとつの誓い。
「約束する。オレは、必ず幸せになるから」


ありがとう。
君に、逢えてよかった。








<Shouさんへのメッセージ>
長い間、本当にお疲れ様でした。ずっと長いこと頑張ってこられたShouさんには、本当に感服いたします。
自分が初めてさくらやまスクエアを訪れたのは99年初頭(Cresがまだ出ていなかった頃)だったので、8年間もさくらや
まの世界にお世話になってきたわけですね。抱腹絶倒のコンテンツ、Shouさんと訪問者の皆様との掲示板における面白い
言葉のキャッチボール等、毎日訪れても飽きることのない素晴らしいサイトだったと今でも思っております。
アルヤたちやルナンたちを知り、彼らの旅路をゲームという形で共有し、多くのことを彼らから学び取ってきました。長
い時を経てもなお色あせることのない魅力を持つ彼らに、そしてShouさんに巡り会えたことは、一生の宝物です。
本当に、本当にありがとうございました! 
 
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